ダンスパーティー
目の前のグラスにはヒビが入っている。
記憶にないが、酔ってどこかにぶつけてしまったようだ。
手元に届いてたったの1週間。わたしがグラスとしての役目を終わらせてしまった。
きのう、このヒビ割れたグラスに花を生けた。
花の名前は、「ダンスパーティー」
グラスの名前は、「バカラエトナ」
20年も昔にグラスを贈られたことを思い出した。
クラシックなデザインで「エトナ」と名前がついていた。
真っ赤な箱をそのまま渡された。包装はされていない。もちろんリボンも何も付いていない。
贈り主は、泰助さん。本人は「タイちゃん」と呼んで欲しいと言っていたけれど、わたしは「タイさん」と呼んだ。西宮でIT関連の会社を営んでいた。
1年の半分を宮古島で過ごしているタイさんとは、趣味のダイビングを通じて知り合った。ダイビングと言っても、わたしはタンクを背負って潜るダイバー、タイさんはスキンダイバーなので同じ船に乗ることはない。
ふたりとも潜る拠点が宮古島だったから、下船後、どちらかかが誘って一緒に夕食を共にすることが多かった。
野生のイルカと泳いだとか、潮の流れが速かったとか、新作のGoproが良いだとか。マクロ派のタイさんとは、少しマニアックな話しが出来て楽しかった。なにより、穏やかに時間が過ぎていった。島時間のせいなのか、タイさんの人柄がそうさせるのか、わたしはいつも平和な気持ちでそこにいた。
決して男女の仲になるようなことは無かったけど、タイさんからは、たくさんの贈り物を受け取った。水中カメラ、ハウジング、広角レンズ、日焼けのリカバリージェル、今日拾ってきたタカラ貝。思い出話。その中に、バカラのグラス、エトナがあった。
わたしは、このエトナを「旅のお守り」として、少し遠くに行くときはいつも持ち歩いていた。
どうしてなのかは自分でもよくわからない。
ひとり旅ばかりのわたしは、「この気持ちを共有したい。」そんな無意識の意識が働いたのかもしれない。タイさんの面影は、酒が注がれたグラスの底の方にいつもあった。
夜、ひとりぼっちのホテルで酒をそそぎ、1日の出来事を思い返していると寂しさも少し紛れたような気がした。
日本中にエトナを一緒に連れて歩いた。あちこち持ち歩くものだから、夏になった頃、飛行機に荷物を預け入れた時に割れてしまった。
エトナが割れてしまってから、1度も旅をしていない。
ちょうどコロナが流行り出し、遠出しにくくなったものだから、なおさらどこにも行かなくなった。
旅をしなくなって5年も経つ。
友人には「バカラで飲む酒は最高においしいんだ。」なんて通ぶったように自慢して見せたが、本当はタイさんの面影を思い出したくて、バカラのエトナを買った。
それなのに、たった1週間でそんなセンチメンタルな気持ちもろともヒビ割れてしまった。わたしが壊したのだ。
捨てられずに放っておいたエトナに「ダンスパーティー」と名付けられた花をそっと生けた。
いつまでも変わらないタイさんの面影がそこにある。
ふっと鏡を見た。初めてエトナを手にした時とはすっかり変わってしまった自分にめまいがした。
明日から旅に出る。
初めての海外だ。もちろんひとりぽっちで行く。
エトナもタイさんも、消えてなくなってしまった。お守りは無い。
それでもきっと大丈夫。
今までだって、ひとりで大丈夫だったんだもの。
fin
*これはフィクションです。
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